2001年4月15日
礼拝説教題 「復活の主と共に歩く私たち」
詩103:1〜5、ルカ24:13〜35
不思議なことに、二人は初め目の前の人が主イエスだとわかりませんでした。彼らは主を良く知っていました。
主は力ある方であり、望みをおき信頼すべき方だと知っていました。主は十字架の上で死なれましたが、
その主が墓から甦られたこともすでに耳にしていました。それでも、目の前におられるのが主イエスだとわかりませんでした。
二人は、主イエスがキリストであることを疑っていたのではありません。甦られたことを否定しようとするのでもありません。
希望を置ける方だと信じています。しかし、主が目の前におられるとは思いませんでした。
彼らは、「それなのに…」という思いに目がさえぎられていました。それは深い後悔の思いです。
「主は望みを置ける方だった。それなのに十字架にかけてしまった。主の側から逃げ出してしまった。
たとえ復活されても、もう自分たちのところに来て下さるなんてありえない。もう赦されない。」
「それなのに…」これは、弱い私たちにとって大きな誘惑です。
「神に守られている。それなのに神を無視して生活してしまった…。」
神を知れば知るほど、自分の罪に気付き「それなのに…」に襲われます。
「もう自分の前に主は来て下さらないのではないか。」と考えたくなります。
ユダはこの言葉に押しつぶされるようにして自分の命を絶ちました。
神に対する負い目に絶望する者の前で、主はパンを裂かれます。
「これは、それなのに…というあなたの負い目を取り除くために裂かれた私の体である。」
このことを語るために甦られた主は来て下さいます。二人は、主の体と血によって、目が開かれました。
甦られた主は、自分の所には来てくださらないと思い込んでいた者と一緒に歩んでおられました。
すでに、罪の負い目を取り除くために歩み寄ってくださっています。そして共に宿ってくださいます。
死も、罪も、それなのに…との思いも、主イエスと私たちを妨げはしません。